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軽井沢、孫が読む漱石 [マイハーベスト]

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軽井沢は穏やかな日が続く。


2017年がスタートした。

大晦日、山荘近くの蕎麦屋で年越しのお蕎麦を頂き、カウントダウン。
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その前二年続けて海外で年をまたいだので、久しぶりの醤油味の年越し(笑)
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明けて元旦、馴染みの鮨屋http://www.sushi-aji.com特製のおせち料理で朝から飲み始め、夜はウィーンフィルのニューイヤーコンサートのライブを観る。

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去年自分達があのお祭り騒ぎのど真中にいたことも、今は何だか遠い日のようである。
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現地昼過ぎのコンサート終了後に、夜9時近い日本とメッセンジャーで感動を伝えあい、時差を飛び越えて時間を共有できる世の中になったのだと、美しき青きドナウよりもそちらの感動が鮮明だったりした。

2016年秋、オーストリア航空の東京直行便の運行が打ち切りになり、ちょいちょいオペラ観に一人で出掛けて行くというわけにもいかなくなった。
ニューイヤーコンサートとミース・ファン・デル・ローエのチェコの代表作の見学は、最後のいいタイミングだったのかも知れない。

ブルノの無彩色とザッハーの煌めきを想う。
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今回碓氷峠を下りれば、この愛おしい山荘を訪れるのは二年先になろう。
ウォーの「ブライズヘッド再訪」が頭をよぎる。

下界でこれから怒濤のように押し寄せるであろう渡航準備から目をそらすように、「日の名残り(The Remains of the Day)」のDVDを観て、山荘に偶然残っていた数年前の文庫本を読み直す。

執事という英国独特の人格を描き、丸谷才一をして「わたしは、男がこんなに哀れ深く泣くイギリス小説を、ほかに読んだことがない」と言わしめた、カズオ・イシグロのブッカー賞作品である。
映画はその静かな慟哭をアンソニー・ホプキンスが見事に演じている。

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「孫が読む漱石」(夏目房之介/実業之日本社)

林間に湛えられた澱のような時間を、山荘の本棚から次々に取り出した本を読むことで費やしていく。
これも数年前まだ山荘周辺に唯一の本屋があった時に買って積んでおいた本であろうと思う。

著者はマンガ評論家として(そういう職業があることを知らなかった)世界で高い評価を受ける、文豪漱石の直系の孫。
前著「漱石の孫」も読んでいないし、そもそも漱石の作品すら『坊っちゃん』と『三四郎』は読んだような気がするけど、『猫』は途中で投げ出したのかなあ、という心もとなさなので、読んでも仕方ないか・・と放っておいたものと思われる。

この手の本は、超有名人の親または祖父母の名を背負う苦労話がお決まりだろうとタカを括っていたが、完全に裏切られた面白さで一気に読み上げる。

一般読者が漱石を読んで感想文を書くレベルと確実に違うのは、そこに著者がDNAの手応えをたぐり寄せようと悶え、図らずも気付く同一性を見つめ、しかし両者(漱石と著者)が生きる社会の違いによって冷静に納得していく過程である。

例えば『私の個人主義』(1914年)より。

漱石は西洋文化の洗礼を受けてロンドン留学から戻り、自ら捕らえてきた「個人主義」を作品に投影する。
その個人主義は利己主義と異なり、個人の自由は社会規範を妨害するようなものであってはならない、自由をどこまで主張していいかは現実の国家の安危に従ってその都度尺度が変わるものだ、という利害調整的なルールを掲げて。

著者はそのポイントを捕らえ、漱石の時代は個人の自我よりも社会や国家の規範こそが重要で価値があったし、自由を論ずる人びとが選ばれた特権階級であったと思いやり、自分の生きる現代ではむしろそれが逆で、戦後大衆によって自由はもっと平坦にカジュアルな解釈となり、争いが生まれることもやむなしと指摘する。

同じ主義主張が、周りの社会の情勢によって変容していくさまを予想した祖父と、それを肌で実際に捕らえている孫。
著者は作品の中から漱石の思想を撚りだし、著作権の切れた(この問題も夏目家には大波乱を巻き起こしたらしい)現代社会に漱石の代理として広く問うている。
それができるのは、彼という血筋を受け継いでいるものにしか為せる業ではない。
少なくとも私にはそう読み取れる。

本著は漱石の作品を、だから時系列で社会情勢と照らし合わせながらひとつひとつ検証している。
3作品しか(しかも一つは途中挫折した)読んでいない私にはそれぞれの解説に、はたと膝を打つという境地までには至らない。

新聞連載された3部作として、何かがおきそうでおきない寸止めラブ『三四郎』、おきてしまう『それから』、おきてしまった過去のおかげで何もおきて欲しくない夫婦の何もおきそうにない小説『門』と言われても、ピンとこないのである。

その中で、著者も全部は読んでいないという『文学論』は、漱石の作家活動の構想の根源とも言うべき作品だという。

西洋文化の根っこを持たない日本人としての漱石が、英文学を勉強することへの違和感、異邦人が英文学を研究することへの疑問などを包括して結局文学とは何かという普遍的な課題を掲げているが、漱石が留学を果たした1900年と、インターネットで瞬時に海外と繋がることが出来る現代とでは異国の文学への親和性も格段に違うだろう。

変貌した今を生きる孫が、受け継いだ祖父の血を現在形に直して模索していく意味がそこにある。

そもそも文学が歴史的、社会的に持つ意味や価値、もっと大きく、それでは世界にとって文学は意味があるのかという倫理からスタートしたという漱石。

「科学とはHow を問い、Whyを問わない」という幾度か登場する比喩。
では文学はWhyを問う使命を全う出来ているのだろうか。

もう完璧に哲学の世界である。

図らずも口幅ったく英文学を・・・などと日本でほざいている自分が何も知らないことをざっくりと切り裂いてくれるであろうこの『文学論』を読んでから、私は海を渡ろうと思う。



著者も祖父の研究のために作品を読まねばならなかった自分の読書を顧み、「本というのは、その人と出会うべき時にうまく出会うのが幸せなのだ。(必要があって読む時には邪念が入る)」と言っている。

そういう意味で、またここで本著に出会えたことを幸せに思う。

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